教えのやさしい解説

 
而強毒之(にごうどくし)
 「而強毒之」とは、正法に背(そむ)く者に対し、これを強(し)いて説き聞かせて毒心を起こさせることをいいます。毒心とは貪瞋癡(とんじんち)の三毒をいい、この毒心を起こさせることによって仏縁を結ぶのが「而強毒之」の化導(けどう)、すなわち折伏(しゃくぶく)です。
 天台大師は『法華文句(ほっけもんぐ)』の『不軽品』を釈す中で、
「本已(もとすで)に善有るには釈迦小を以て之を将護(しょうご)し、本未(もといま)だ善有らざるには不軽大を以て強(しい)て之を毒す」
と示しています。これは、すでに久遠元初(くおんがんじょ)の下種の妙法を有する本已有善(ほんいうぜん)の機根と、未だ下種されていない本未有善(ほんみうぜん)の機根を比較し、本未有善の機根に対しては如何(いか)なる障難があろうとも、不軽菩薩の礼拝行のごとく妙法を強く説き聞かせる、下種結縁の折伏を釈したものです。
 このようなところから日蓮大聖人は『開目抄』に、
「邪智・謗法の者の多き時は折伏を前(さき)とす、常不軽品のごとし」(御書 五七五ページ)
と、邪智・謗法の者が充満している末法の今時においては、折伏の行業をもって「而強毒之」すべきことを説かれています。
 なぜ末法は「而強毒之」の折伏化導を用いるのかと言うと、『曾谷入道殿許御書』に、
「今は既に末法に入って、在世の結縁の者は漸々(ぜんぜん)に衰微(すいび)して、権実(ごんじつ)の二機皆悉く尽きぬ。彼の不軽菩薩、末世に出現して毒鼓(どっく)を撃(う)たしむるの時なり」(同 七七八ページ)
と仰せのように、釈尊によって熟脱(じゅくだつ)の化導で済度(さいど)せられる本已有善の衆生は正像二千年で尽きたのであり、末法の本未有善の衆生に対しては、強いて説き聞かすことによって毒鼓の縁を結ばしめることが大切であるからです。
したがって、たとえ、死に至るような迫害(はくがい)が起ころうとも、不自惜身命(ふじしゃくしんみょう)の精神をもって恐れることなく、この妙法を説き聞かせること、すなわち妙法の下種折伏をもって順逆二縁を結び、成仏の本懐へと導く要諦(ようてい)が「而強毒之」の化導です。
『弟子檀那中御書』に、
「定めて日蓮が弟子檀那、流罪死罪一定(いちじょう)ならんのみ。少しも之を驚くこと莫(なか)れ。方々への強言(ごうげん)申すに及ばず。是し併(なが)ら而強毒之の故なり」(同 三八〇ページ)
と、大聖人は私たち弟子檀那に対して、流罪死罪といった王難をも恐れず、折伏弘教に励みなさい、それが「而強毒之」であると仰せです。
 また『御義口伝』に、
「不軽礼拝の行は皆当作仏と教ふる故に慈悲なり。既に杖木瓦石を以て打擲(ちょうちゃく)すれ共、而強毒之するは慈悲より起これり」(同 一七八二ページ)
とお示しです。不軽の跡を承継する私たち法華講衆は、この御教示を深く拝し、常に題目を唱えて自身の境界を開き、御本仏大聖人の大慈悲の心を我が心として、いかなる迫害にも負けず、未だ正法に縁していない人々や、創価学会員に対して勇猛果敢(ゆうみょうかかん)に「而強毒之」の折伏行を進めていくことが大事です。